祝祭と地獄と日常と

 マスメディアでもSNSでも、東京五輪の熱狂やドラマと、新型コロナウイルスの感染拡大や病床逼迫のニュースとが交互に流れていく。そんな日々が二週間ほど続いた。このすさまじいコントラストを見て、何か感じた人も多いと思う。東京五輪が終わる今日、これに関連して二つ言いたいことがある。

 

 一つは、五輪が終わってからも、同様の状況は存在し続けるということだ。これまでも、素晴らしいスポーツの試合が行われたその日に、飢えに苦しんでいる人がいた。感動的なコンサートがあったその日に、死病に倒れていた人がいた。あるいは誰かの誕生日パーティが行われているその日に、どこかで自殺している人がいた。ただ、普段の生活の中ではそうした歓喜と悲惨は切り離されているため、その対照についてあまり考えずに済む。今回は五輪もコロナもともに例外的な注目を浴びるトピックであったため、その対照を明白に見て取ることができた。

 私は、これがいつものことだから正常だと言いたいわけではない。むしろ、五輪が終わったのちにも、世界は常に狂っているということを主張したい。

 

 二つ目は、これは本当に余力があればでかまわないのだが、上に挙げたような「悲惨」を緩和するために何らかの力を出してほしいということだ。コロナに際して、多くの人は程度の差はあれ自粛をしたと思う。そして、「命を救うために自粛するべき」というテーゼが正しいのであれば、「命を救うために資金や労力を拠出するべき」ともまたいえるのではないだろうか(私は以前、無限に自粛する必要はないという主張をしたが、ある程度自粛する必要はあると考えている。資金や労力の拠出についても全く同じである)。私は、きわめて少額ではあるが、飢餓救済団体に毎月寄付するようにしている。この狂った世界をごくわずかにでも何とかしていこうという人が一人でも増えてくれればとてもうれしい。