人命は生活より重いのか?――環境活動家に答えて――

 環境活動家がゴッホの「ひまわり」にトマトスープを投げつける事件があった。活動家は「絵画の保護と地球や人類の保護と、どちらが重要なのか」と叫んだという。

 

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 これについて書きたいことがいくつかある

 

1.ろくでもないコメントが多すぎる

 例えばこれ。

 

  まず、活動家が言っている「命」というのは活動家自身の命ではなく環境破壊によって失われる貧困国の人や将来の人の命のことだと考えられ、ここには曲解がある。もっと問題なのは、環境問題という論点自体には触れず活動家の人格を中傷している点で、こういう論法は社会問題(ここでは環境問題)に対する他の人々の理解や議論を全く増進せず、公共的議論という点で全く価値がない。また、この点は活動家を初めから見下しているせいでその主張内容自体も正しく解せない状態になっていたり、このツイート者自身の生活スタイルや政治信条がその道徳性を問われることを回避する効果をもたらしていたりといった弊害もある。

 他のコメントにも同様の問題を持っているものが多い。

 

2.絵画よりも「地球」や「人類」よりも、今の自分の生活が大切だ

 さて、論点自体に対して、私自身の答えを書くとこのようになる。具体的に言えば、十分なカロリーを摂取して空腹にならずに生きていくこと、暖房を使って冬に凍えずに済むことは絶対に譲れない。「地球」や「人類」のために(有り体に言えば居住地も顔も名前も知らない誰かのために)これらを放棄しろというのであればそれこそ抗議行動を起こしたい。もし今の生活を維持するために将来の自分の生活が危うくなるのであっても、正直そのときになんとかしてほしい。同様に、生活を守るために必要なのであれば絵画など灰になっても一向に構わない。

 多くの人はだいたい本音は同じ考えだろう。(毎度同じことを言っているが、もしそうでないという人がいれば、人命のために月に何円あるいは何時間支出しているのか教えてほしい。)。そして、化石燃料からの脱却が進んでいないとすれば、その最も根本的な原因はここにある。

 

3.道徳的であるためには、苦痛と死を現前させるべき

 前項で露悪的なことを述べたが、私も上記の判断はかなり道徳的に不正だと思う。遠い国の知らない人のものであっても、将来の人のものであっても苦痛はできるだけ縮減されるべきで、自分の比較的小さい平安のために他人に莫大な苦痛をもたらすのは不正だと感じる。そして、こうした考えもまた多くの人と共有できているのではないかと思う。

 現状は、苦痛は誰のものであっても縮減されるべきという(私を含めた)人々の道徳的直観と、化石燃料を消費し、遠い国や将来に苦痛と死をもたらしているその生活様式が合致していない。そして、この不一致自体(特に「苦痛と死をもたらしている」という部分)が明白に認識されていない点、もう少し言えば認識しまいとされている点が課題だと思われる。実際、連日惨状が報道されているウクライナについては、生活の不自由を押してでも支援を支持する人が多い。道徳的判断は人の心に生まれるものなので、どのような事実であっても人に認識されなければ不正とはなりえない。認識されて初めて、ある出来事は不正となりえ、それに対処しようという動きも生まれうる。

 そうだとすれば、「将来の人のものであっても苦痛はできるだけ縮減されるべき」という規範を達成するために行うべきことは、化石燃料によってもたらされている苦痛や死を明らかに見ること、そして他の人々にも明らかに見せることだろう。そうした点でこそパフォーマンスは必要になると思う。当然、多くの人に認識したくないことを認識させようとするので、摩擦は避けられない(肉食者に屠畜の様を見せようとするベジタリアンがたびたび激しく攻撃されるように)。しかし、道徳的に正しくあるためには、道徳的な不正を人の目から覆い隠そうとするものとの戦いは避けられない。