「憂国」という演技

 先日、ある読書会で三島由紀夫の短編『憂国』を扱った回を担当した。そこで三島について少々調べたので、そこで考えたことを書いていく。

 

 『憂国』のあらすじは、その冒頭部分を読めばおおよそ把握できる。

昭和十一年二月二十八日(すなわち二・二六事件突発第三日目)、近衛歩兵第一聯隊勤務武山信二中尉は、事件発生以来親友が反乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必至となりたる情勢に痛憤して、四谷区青葉町六の自宅八畳の間に於て、軍刀を以て割腹自殺を遂げ、麗子夫人も亦夫君に殉じて自刃を遂げたり。中尉の遺書は只一句のみ「皇軍の万歳を祈る」とあり、夫人の遺書は両親に先立つ不孝を詫び、「軍人の妻として来るべき日が参りました」云々と記せり。烈夫烈婦の最期、洵に鬼神をして哭かしむの概あり。因に中尉は享年三十歳、夫人は二十三歳、華燭の典を挙げしより半歳に充たざりき。*1

   発表当初、この作品は「思考停止のニヒリスト的世界に於ける「美」あるいは「魅惑」」(山本健吉)、「完全な無思想の美しさ」(江藤淳)などといったように、専ら美的なものと受け取られ、ここから右翼的な思想を抽出することは作品世界を破壊するものであると考えられた*2。しかし三島はこの後、二・二六事件の蜂起兵や特攻隊員の霊が人間天皇を批判するという内容の『英霊の聲』を発表したり、自ら民兵組織(後の「盾の会」)を組織したりするなど次第に反時代的傾向を鮮明にし、現在の我々がよくイメージする右翼思想家としての三島由紀夫に近づいていく。そして昭和四十五年(1970年)十一月二十五日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決する。

 

 『憂国』をさっと読んでまず感じたことは、「憂国」とは結局何だったのかという疑問である。『憂国』は、確かに「自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、果してこの死に一顧を与えてくれるかどうかわからない。」というような文もあることはあるが、大部分が武山中尉と麗子夫人の死に支度と最後の交わり、そして自害の描写である。中尉が親友らから蜂起に誘われなかった理由は、新婚であることを配慮してであるから、明示されてはいないが中尉の思想的立場は彼らに近いものと考えられる。そうだとすると、三日目からでも叛乱に加わって少しでもその成功可能性を引き上げるべきではなかったか。あるいは彼らに勝ち目なしと思えば、一時彼らを討つことになっても軍に留まり、彼らの思想の実現しうる時を待つべきではないか。同じことは三島自身の自決についても言える。駐屯地のバルコニーから音声不明瞭な演説をしても、それで自衛隊が蜂起する可能性など皆無に近い。それよりは戦後の民主政治の中で自主防衛を訴え続ける方が、国にとって実りあるものだったのではないだろうか。

 

 この答えは三島が心酔していた『葉隠』の中に見出せる。『葉隠』は佐賀藩の武士であった山本常朝(1659~1719)の口述をまとめた書物で、戦時中には戦意高揚にも利用された。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。

(訳)武士道の本質は、死ぬことだと知った。つまり生死二つのうち、いずれを取るかといえば、早く死ぬほうをえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。”事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ”などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。

とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれすくなかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。

 ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようとも、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。*3

  『葉隠』的に、あるいは三島的に言えば、私の疑問は「上方風の打ち上りたる武士道」ということになるのだろう。確かに『憂国』の武山中尉が置かれたような火急の場合に正しい選択肢を見極めることは困難である。また、その場での思考が「生き延びたい」という私利に引きずられてしまう危険があるという指摘ももっともだろう。とはいえ、『葉隠』上記引用部分も「恥にはならず」という私的利益を判断基準にして、公的視点から見てどちらが適切かという判断から逃げているという反駁もできる。

 

 ここで、三島の『葉隠』解釈を引用する。

戦時中、政治的に利用された点から、「葉隠」を政治的に解釈する人がまだいるけれども、「葉隠」には政治的なものはいっさいない。武士道そのものを政治的な理念と考えれば別であるが、一定の条件下に置かれた人間の行動の精髄の根拠をどこに求めるべきかということに、「葉隠」はすべてをかけているのである。*4

 一般に「政治的」とは、国家などの人間集団において、一定数以上の人間の行動を操ろうとする様を指す。したがって「政治的でない」とは、国家や藩といった統治組織において他人をどう操るかではなく、専ら個人としてどう生きるべきかという視点から書かれたものだと解釈できる。こうして見ていくと、山本常朝にとっても「常住死身になり」て「家職を仕果す」という演技が彼自身のために必要だったのであり、武山中尉や三島にとっても「国を憂い」て死ぬという演技が彼ら自身のために必要だったのだろう。『憂国』以後の三島の遍歴から、同作の右翼的思想性は次第に現実味をもって捉えられていくようになるが、本質的には初期の山本や江藤のコメントが結局正当だったのではないか。*5

 

 二・二六事件の叛乱将兵たちは天皇に対して恋闕の情とも呼ぶべき熱烈な忠誠を抱いていたとされるが、実際の天皇は彼らの蜂起に激怒し断固鎮圧を命じた。戦後に三島ら右翼の対称的存在であった新左翼内ゲバのうちに自壊していった。オウム真理教の幹部はほとんどが死刑に処された。まとめて言えば、天皇、革命、救済といった「大いなるもの」を社会全体の支配原理としようとする運動は、テロ行為とみなされ粉砕されていったと言える。結局のところ、日本に存在するのは多元的な思想信条を持つ人々の集合体としての社会と、それを管理する冷徹非情な統治機構でしかなかった。

 そして、繰り返される「大いなる幻想」の敗北により、もはや三島のように演技としてそのような幻想を奉ずることも現在ではもはや不可能といえるだろう。三島は自衛隊駐屯地での演説を「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ」という言葉ではじめたという。現在この言葉は、奇矯きわまる陳述をする際の枕詞と化している。

*1:三島由紀夫『英霊の聲』、河出文庫、2005年。本書の収録作は小説『英霊の聲』、『憂国』、戯曲『十日の菊』、随筆『二・二六事件と私』の四編

*2:池田純溢「『憂国』『英霊の声』に於ける思想性――天皇ナショナリズムの萌芽」、長谷川泉・森安理文・新藤祐・小川和佑編『三島由紀夫研究』右文書院、2020年。本書は復刊で、元の序文は昭和四十五年六月となっている。

*3:三島由紀夫葉隠入門』、新潮文庫、1983年。ここでの引用元は笠原伸夫訳の付録部分

*4:同上

*5:当たれていない文献も山ほどあるので、与太話レベルの発言として捉えていただきたい