どこまでこの道を掃く

 ミヒャエル・エンデの名作『モモ』には、ベッポという道路掃除夫の老人が登場する。ベッポは主人公モモの友人で、毎日道路を掃いて過ごしている。彼の掃除の仕方の特徴として、作業中にゴールを考えない、というものがある。あとどれくらい掃くかということは考えず、ひと掃き、ひと掃き、目の前の道を掃いていく。そうするといつの間にかその日に掃くべき分が終わっている、と彼は言う。灰色の男たちが町にやってくる前の、道路を掃き、またときどきモモたちと話して過ごす彼の生活は幸福である*1

 私が新卒で入った会社では、新入社員が始業前に分担して雑務を行うという労働基準法に違反した*2慣習が存在した。そのうち半分ほどは部屋や廊下の清掃だったため、私はその年のうち6ヶ月ほど、毎労働日の朝に会社でコロコロをかける暮らしをしていた。コロコロをかけながら、時おり道路掃除夫ベッポのことを思い出した。

 ベッポが幸福だったのは、道を掃くその行為自体を目的として暮らすことができたからだろう。ひと掃き、またひと掃き道を掃くというやり方であれば、一作業ごとに生まれる充実感を味わうことができるし、その日の道の様子などにも目を向けて新しい発見を得ることもできる。つまり、行為の中に楽しみがある。一方で、ゴールと期限を設定し、常にそれに向けて作業を進めるというやり方だと、最終的な成果物のみが目的となり、そこに至るプロセスは短ければ短いほどよい単なるコストと化してしまう。
 いうまでもなく現代の労働のほとんどは後者の型に属している。もちろん、そうした労働の成果によって我々の生活が豊かになった、言い換えれば飢えや渇きや病気や災害や暑さ寒さから解放されてきたことは理解しなければならない。しかし、あらゆる行為において成果物だけが目的であり、そこに至る過程はやむをえない労力でしかないなら、我々の人生はそのほぼすべてが苦役とみなされるほかなくなってしまう。付け加えて言えば、「あらゆる行為において成果物だけが目的」となる事象は、雇用労働に従事する際だけではなく、生活のあらゆる場面において起こるように思う。私はこの先の人生が、時たま電気刺激のようにもたらされる報酬と、それを得るために死ぬまで続く苦役のみによって構成されているようなイメージを抱くことがしばしばある。

 先述の会社で午前9時までに掃除を終えた私は、営業電話をかけ続けて進展の見込みのない商談を生み出すなど、無意味な成果物を目的とした無意味な労働に従事していた。その会社は2年ほどで辞めた。今は別の会社にいて、成果物の中身は多少有意味になったが、苦役的な労働に従事していることは相変わらずだ。

 

 

*1:『モモ』に関する記述は古い記憶頼みなので、間違っていたら申し訳ない

*2:始業前の作業時間は労働時間に含まれない慣行だった。そもそも労働時間管理が崩壊してもいた。