世界は世紀末の夢を見る

 ずいぶん前になるが、『たぶん悪魔が』という古いフランスの映画を見た。1970年代あたりのフランスで、あるエリート男子学生が自殺に至るまでの顛末を描いたものだった。明快な筋書きがあるわけではなく、いくつもシーンを並べることで何かを象徴的に浮かび上がらせるタイプの作品のようだった。

 乏しい批評眼で見た限りだが、共同幻想の消滅、資本主義と国家の暴走、それらによる虚無的・終末的なビジョンが主なモチーフになっていた。物語の序盤、主人公は新左翼の集会や教会の説教に出席するが、そのいずれにも幻滅する。そして、環境主義者の友人は映画内ではしばしば煤煙を排出する工場や森林伐採、油を流出させるタンカーといった自然破壊の有り様を喧伝し、原子力をめぐって教授を問い詰める。こうした不穏な空気の中で、タイトルにつながるバスの乗客たちの会話(「裏で糸を引いているのは誰だ」「人間性を嘲笑う奴は誰だ」「たぶん悪魔だ!」)がなされ、絶望に取り憑かれた主人公は死へと進んでいく。彼は精神科医との会話の際、「僕にはものがよく見えすぎる」など、虚無化し破滅へ向かう社会を見通したようなコメントも残している。

 現代の社会にも符合するテーマ設定で、事実そうした指摘をする批評も存在する。……しかし、古い映画の破滅のモチーフが現代に通ずるというのは、どう考えてもおかしくないだろうか。1970年代の破滅のビジョンが正しかったのであれば、我々が住んでいる現代社会はそもそも存在しないはずだ。私が子どもだった頃にも、2020年代には地上には致死的な紫外線が降り注ぎ、化石燃料は枯渇していると言われていたような気がする。しかし、2020年代の我々はおおむね平穏に生活しながら、地球温暖化の危機の叫びを聞き続けている。

 結局、こうした危機は部分的には技術進歩や政策によって、残りの部分は死者を忘れ去ることで解決されていくのだろう。地球温暖化によってどこかの国の洪水でいくらかの人間が死亡しても、時間が経てばそれは言及されなくなっていく。(これは直観的に不道徳だが、一方で以前の日本において巨大台風の際に発生していた死者の規模についてもほとんどの人が覚えてはいないのではないか。そして、それは資本主義による経済発達と、政府による公共事業によって改善されてきたはずだ。)

 それでは、なぜ危機は叫ばれ続け、破滅のビジョンは存在し続けるのだろうか。私はこれが、映画のもう一つの「共同幻想の消滅」というモチーフに関わると考えている。1960年代末の政治の季節が去って以降、政治や宗教といったものが普遍的な理想たりうるという幻想が崩壊した。新自由主義経済が世界を席巻し、人々は中間集団の桎梏から解放され、自由に各々の人生の目標を追求できるようになった。その一方で、生き方や思想において拠り所となる権威を失い、家庭や仕事や趣味といった各々の小宇宙に撤退し、人生に意味を与えるための塹壕戦を戦い続けなければならなくなった。破滅のビジョンは、そうした塹壕戦に飽き足りない、あるいは参加できない人々が見る、「危機に瀕した世界とそれを救済するための戦い」という共同幻想=夢なのだと思う。

 我々はなんだかんだ、束縛されず自由に生活したい。そして、一度崩壊した幻想を再構築することはできない。したがって、今後も自由主義経済システムは拡大を続け、人々は無数の塹壕へと分断され続ける。そして、終末のビジョンは繰り返し繰り返し想起され続けていく。