「優しいネオリベ」以外の出口はない

 先日、朝日新聞の連載「藤田直哉のネット方面見聞録」で「『ひろゆき』に頼る者を非難できるか」という記事を読んだ*1。内容は伊藤昌亮の「ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」*2の紹介である。藤田は、伊藤がひろゆき西村博之)の人気の原因の一つとして「優しいネオリベ」=「弱肉強食のネオリベラリズム社会でうまくいかない『コミュ障』『引きこもり』『うつの人』などの(ひろゆきの表現で言う)『ダメな人』に対し、プログラミング思考を身に付け自助努力で稼いで成功することを指南する態度」を挙げていることを紹介している。続いて、産業構造の変化の加速や、結婚し子どもを持つことが困難になったことなどから、「普通」に生きることがきわめて難しくなり、自殺率の上昇や反出生主義流行が生じているという現状認識を示す。そして、そうした状況下で「優しいネオリベ」に頼る者に理解を示しつつ、「そうした社会にした元凶こそがネオリベラリズム」だとし、「『ダメな人』でもそこそこ幸福に生きられる社会に変えていくのが、必要なことではないだろうか」と結んでいる*3

 これを読んで、「『ダメな人』でもそこそこ幸福に生きられる社会」といえば聞こえはよいが、実際には「優しいネオリベ」の方を支持すべきと思った。確かに昭和後期あたりの日本は、今に比べれば少々問題のある人でも(男性であれば)安定した職に就け、結婚や子どもを持つことも容易だったのだろう。しかし、「ダメな人」でも仕事に就けたのは、(途上国の製造業が未発達で)国内に一定の所得をもたらす単純労働の雇用が多かったこと、そして女性をそうした正規雇用から排除していたことが要因だ。結婚が容易であったのも、結婚して当然という風潮の強さや、女性が経済的要因から結婚せざるをえなかったことが主因だと考えられる。「ネオリベ」でない社会を作るために、保護貿易等で途上国の産業を奪って国内で高い(品質的に優れているわけでもない)製品を作ることが良いかといえばかなり疑問符がつく。さらに結婚圧力と性別役割分業の再強化に至ってはほとんどの人にとって問題外だろう。

 結局、グローバル化や産業の高度化、あるいは結婚の非当然化といった現象を受け入れる以外に支持可能な立場はない。そのうえでよりよい社会を構想するとすれば、「だめな人」が自助努力しなくてもよい社会ではなく、「だめな人」にも各自なりの自助努力を奨励したうえで、その自助努力を資金や環境やノウハウといった前提条件の面で支援する社会となる*4。したがって、「優しいネオリベ」=「社会において低能力とされがちな人が、自助努力によってスキルを身に付けることを奨励すること」は推奨されるべきものである*5

 

(追記:藤田の論に対してかなり否定的なことを書いてきたが、「ひろゆきに頼る者」を切り捨てず、内在的に理解しようとしている点は好意的に評価している。)

*1:一応リンクはこちらだが有料記事。私は紙で読んだ。(藤田直哉のネット方面見聞録)「ひろゆき」に頼る者を非難できるか:朝日新聞デジタル (asahi.com)

*2:〈特別公開〉ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか | WEB世界 (iwanami.co.jp)

*3:その他にも「プログラミング思考」の説明や、世代の断絶に対する批判といった内容もあるが、今回は省略する

*4:もちろん重度障害の場合や当座の生活資金にも欠く場合など、自助努力にきわめて厳しい制約がある場合もあり、そうした場合にまで自助努力を求めるものではない

*5:本稿はひろゆきがとっている「とされている」特定の態度(「優しいネオリベ」)について支持を表明したにとどまる。ひろゆき自身の個々の主張については特に詳しくなく、判断できない