吸ひこまれない

本当は解題が必要なタイトルなんてそもそもつけてはいけないのだけれど。

 

このブログの「吸ひ込まれない」という題は次の短歌に由来する。

 

 

沈黙の山へ続ける白き道ある私度僧の吸ひ込まれけり

 

 

私が高校生のときに出場した短歌の大会で作った歌だ。本来は大会のルール上三行書きなのだが、ここでは特に行を分ける必要がないので一行に戻している。「私度僧」とは、奈良時代あたりの、僧侶を名乗るのに政府の許可が必要だった時代に、その許可を得ずに得度(出家)していた者のことをいう。

「山」という題を与えられて20分でこの短歌を錬成した。当時の即詠力(今よりずっとまし)を差し引いて考えても、吸い込まれていく私度僧というイメージが心の中にしっかり根付いていなければできない芸当だと思う。当時の私は、別に仏教徒というわけではなかった。キリスト教イスラム教にも親和的な感情を持っていて、歴史などでそれらが登場する範囲は熱心に勉強していた。教師やクラスメイトが宗教を嘲るようなことを言ったときにはだいたい噛みついていた。人が何事かを強く信じるということ自体に崇高な価値を感じていた。要するに、恋に恋するティーンエイジャーがいるように、私は信仰を信仰していた。

 

現在の私は、信仰に対する信仰よりも、仏教に近い立場に移っている。それは大学受験をしていたころにISが暴虐の限りを尽くしていたからかもしれないし、大学に入って多忙で辛かったときに仏典の章句がふと差し込んできたからかもしれない。とりあえず今は、そのあたりの具体的な要因を丹念に思いだすことはできない。

あくまで私の解釈だが、キリスト教が救いを冀う希望の宗教であるのに対し、仏教は無常を悟る安寧の、あるいは虚無の宗教である。すべては因果により生じ、現れては消えていく。本質的なものや永遠に残るものはなく、「すべては消えゆく」という真理だけが永遠である。生は苦であり、苦は欲から生まれる。したがって欲を滅するべきであり、そのためには事物のはかない本性を見据えて執着を断つほかにない。

こうした教義を心に刻むことで、そうでない場合よりもはるかに心の平穏が保てるのは確かだ。一方で私のSNS上での自称は「似非仏教徒」であり、このブログのタイトルは「吸ひ込まれない」である。究極的な話をすれば、じっとしていれば飢え渇くことは避けられず、動けばその分疲れることも避けえない。それより低い次元でも、良い音楽は良いし、就職もできればしたいし、人種差別は廃されるべきだと思う。それらが虚無の中に物の分別を見出し、満たされないという苦しみにつながる心の妄執だとしても。

「吸ひ込まれ」るまでの道ははるかに遠い。