それほどの義務がありますか――自粛について――

 現在、新型コロナウイルスにかかわる緊急事態宣言が4都府県に、蔓延防止等重点措置が7県に発出されている。一応期限はいずれも5月11日となっているが、延長が検討されているという情報があったり、新たに発出を要請する県があったりと、対象地域が増える気配はあっても減る気配はない。一方で、この大型連休の人出は昨年の同時期と比べて大幅に増えたようだ。

 

 私はこうした自粛をしない人々について、あまり非難する気にならなくなってきている。特に、長期間にわたって自粛に協力してきており、最近それが緩んできたような人間についてはほとんど非難できない。むしろ、そうした人々にさらなる自粛を要求する側がその正当性を問われるべきであるように思う。

 

 類比として、以下の問いについて考えてほしい。

はしかによって世界で年間20万人の子供の命が奪われている。はしかには予防接種が有効である。約3000円で、つまりCDを1枚買うお金で、170人の子供にはしかの予防接種を行うことができる。では、あなたがCDを買おうとするとき、その3000円を、はしかの予防接種のために寄付すべきだろうか。*1

 この質問に対しては、答えるのをためらう方もいるだろうし、イエスと即答する方もいるだろう。あなたが後者であった場合、同じ問いはCDだけでなく、飲み会をするとき、本を買うとき、旅行をするときなど、生活・生計の維持に必要ではない支出のすべてについて、しかも一度ではなく毎回向けられるものと考えてほしい。第三者的に見ればこうした用事が子供170人の命より価値を持つとは言えないので、常に答えはイエスであるべきだろう。しかし、実際にあらゆる「不要不急」の支出を切り詰めて寄付をすることが道徳的義務として求められるとなれば、さすがに何かおかしいと感じるのではないだろうか。

 自粛についても同様で、道徳的に正しい行為であっても、それを無限に要求することが正しいとは言えない。もちろん死者数の減少につながる行為は一般的に良い行為であり、奨励されるべきだ。しかし、すでに長期間にわたって自粛に協力してきた人間にその継続を求めることは、無限の寄付を要求することに似た過剰な要求である可能性が高い。

 

 加えて言えば、同じ負担を継続して負い続ける場合、時間が経つにしたがって最初のうちとは比較にならない負荷がかかってくる。単に3㎞歩くことと30㎞歩いた後でさらに3㎞歩くこと、あるいは単に一日断食することと十日間断食した後でさらに一日断食することとの差を考えればこのことは容易に分かるだろう。同様に、一年間自粛をした後の更なる自粛は、昨年の一度目の緊急事態宣言における自粛とは比較にならない重さがある。特に中高生や学生などの場合、限られた年数の中で勉学のみならず運動、文化活動、社会的活動、旅行、賃労働などに従事し見聞を広めることはその後の人生においてきわめて有用なはずだが、すでに一年間が事実上吹き飛んでしまった中で残った期間が削られていくのは、莫大な損失といえるだろう。

 

 もちろん個別の個人や団体が感染予防のため、自粛をしていない人間との交流を断つことは基本的に自由である。したがって、周囲のそうした個人/団体と自己との社会的関係のため事実上自粛を強いられる者がいるとしても、それ自体は不当であると言えない(現に私は連休中にかなり厳しい自粛を行った。中小企業に勤務しているため、職場でクラスターなどを出せば業務の大部分が止まってしまい、自分の収入も危なくなるためである)。この文章における主張は、自己の利害関係を超えた道徳的要請のために自粛を行うべき義務はもはや大部分失われた、という点である。

 

 かつて、ある首相は航空機ハイジャック犯との交渉に際して「人命は地球より重い」と述べ、超法規的措置により獄中のテロリストを釈放した。一方で、当時毎年8000人以上の死亡者を出していた交通事故について、その首相が自動車の使用を大幅に制限するなどの抜本的な対策を行ったという形跡はない。特殊な死は厳重に予防される一方、日常化した死は半ば仕方のないものとして受け流されていく。「人命が最優先」という規範も、その実かなり政治的・偏頗的である。

 

 

 

 

*1:瀧川・宇佐美・大屋(2014)『法哲学』p20,21。元々の文脈は功利主義に対する批判。